なんでYoutubeを始めたのかーその1

なんでYoutubeを始めたのかーその1

 

 

 

話すと長くなる。ていうか理由が多すぎる。とりあえず今日はとりあえず一つ目の理由から。

まず単純に自分が教えることが好きだということにハッキリ気がついたから。といってしまえば簡単なことのように思えるけどここにたどり着くまで紆余曲折あったからその経緯を話そうと思う。

きっかけは3月に、ある建築家の設計事務所インターンに行ったことだ。大学2年から3年へのこの時期、誰もが自分の進路に迷う時期だろう。なんとなく建築学科に入ったはいいもののその先が全く見えてない人も多い。何を隠そう自分もその一人だった。そんな中、うちの大学の門とその周辺を設計するというコンペの結果が発表された。このコンペはうちの大学関係者のみ(教授や卒業生、在校生など)が応募できる形式で自分の知っている場所が自分の知っている人たちによって設計されるというコンペだった。僕は、そこではじめてプロの建築家がつくったプレゼンテーション案というのを見た。考えてみれば、今まで見てきたのは学生のプレゼンテーション案ばかりでプロの建築家の案など見たこともなかったのだ。もちろん有名建築はみてきたけど、コンペ案をみたのは実は初めてだった。しかも、自分のいつも使っている場所というのも、いままでなかった。

そんな中、選ばれた作品すべてに目を通したけどどれも心躍るような提案ばかりで、「こんなのができたら面白いだろうな!」と初めて心から思えた。正直、いままで意匠設計には懐疑的であったけど、普段使っている無味乾燥なあの門がこんな風に変えられるのか!と本当の意味で初めて建築設計に心を動かされた。

そんなかんやで、初めて建築設計事務所に興味が湧いてきた。ちょうどうちの大学で講師をやっていた建築家がインターンを募集していたので、迷わず申し込んでみた。

さっそくコロナが徐々に日本を侵食し始めた3月はじめから2週間のインターンに行くことになった。まあそこでいろいろあったんだけど、ほんとにいろいろあって、その建築家と衝突したりとかまあいろいろあったんだけど(この話はいつか別の機会で)まあそれは置いといて、その衝突とか色んな葛藤から自分にとっての幸せってなんだろうなって問いが生まれたわけ。(急に重い)この先どうやって生きていこうって。何を基準に生きていこうって。自分はほんとに建築が好きなのかな、建築の世界で生きていけるのかな、そもそもそれを望んでいるのかなって。とりあえず、その答えを求めていろんな本を読みまくった。自己啓発本からアドラー心理学までなんでも読んだ。

この話もいつかしていきたいと思うんだけど、結論としては「自分の好きなことをする」と「人に感謝されることをする」この二つに帰着したの。

 

「自分の好きなことをする」とは言ったものの世の中の大半の人はそんなもの見つけられない。なぜかというと「承認欲求」が邪魔してくるからだ。

岡本太郎の「今日の芸術」という本にこんな話があった。岡本太郎は「誰もが芸術家なのだ」と文中で明言している。どういうことかというと、例えば幼稚園児に紙と描くものを与えると園児たちは自由気ままに絵を描く。こういう絵を岡本太郎は「本当の芸術」と言ったのだ。人間の本能的な衝動をなにかであらわす。この行為こそが芸術なのだ、と。(これは俺の解釈)たしかに、急に歌いたくなったり変な踊りがしたくなったりすることが誰にでもあるだろう。それは人間の本能であり、それを表すことが芸術なのだ。うちの母さんは、風呂に入る前に父さんの前で風呂に行く舞を踊るそうだ。これは母が頭おかしいとかそういうのじゃなくてたぶん人間ってそういうものなんだと思う。(父は早く風呂入ってくれとおもっているらしい)

だがしかし、だれもが持っていたはずの絵を通じて自分の感情、思いを表現するという衝動は、ほとんどの人はいつのまにか消滅している。なぜなら歳をとればとるほど絵を描いた後にこう言われるからだ。「君は絵が下手だね」「君はあの子より絵が上手くないね」と。絵を描く本能的な喜びよりも周りからの評価に振り回されるようになるのだ。

これはなにも絵だけに当てはまることじゃない。世の中何でもそうだ。人の目が気になるからやめてしまう、そもそもやらないってことばかり。「やるからには上手くなければならなし」「あんなにやってるのに全然上達しないね」「君、〇〇年もそれやってるのにまだ〇〇しかできないの?」「下手だね」「なにしてるの?」「頭おかしいんじゃないの?」「才能ないよ」こういう声を気にしている限り「自分の本当に好きなこと」なんて見つけられるわけがない。「好きなこと」ってのは周りから承認されることとかそういうことを超えた、自分の中から湧き出るエネルギーだったりよろこびだったりすると思う。

 

 

ということでまず「自分の好きなこと」を見つけるためには人の目を気にするのをやめる、つまり承認欲求を捨てることをしなきゃいけない。(承認欲求が人間の不幸の根源である話もいつかしたいな)まず、建築学科に入ったから建築に関係してなきゃいけない、これも一種の他人が決めたレッテル貼りだ、そういうのも一切捨てて考えなきゃいけない。もっとこう自分の魂が突き動かされるような何かを見つけなければならない。

そこで結局たどり着いた答えが「教える」ことだったんだよね。アルバイトが塾講師なんだけど、まあそれも差し引いて振り返れば昔から「教える」ことが好きだった。

うちの高校出身の人はわかると思うけど、うちの高校には「自主ゼミ」なるものがあって定期テスト前に生徒が生徒に教えるゼミみたいなのがあった。高2の時だったかな、そんときからやってたんだよね自主ゼミ先生を。当時は人生で一番勉強してなかったからコミュ英とか倫理で赤点を続出してた。でも受験サプリをやっていたから英文法と古典文法(当時の受験サプリは正直その二つしかわかりやすくなかった)はめちゃめちゃ理解できてた。(テストはなぜかできない。)だから誰が名付けたか忘れたけど「赤点先生」って名前で自主ゼミをやっていた。自分の勉強もまともにできてないのに人に教えてばっかりで、自分が教えた人が俺よりいい点数を取ってきたりもした。(受験では本番に強いけどどーも定期テストは本番に弱いんだよね)

 

大学に入った。最初のきっかけは「西洋建築史」。この授業は教授の授業がわかりやすくてめちゃめちゃ面白かった。なにより建築史という時代背景とともに建物の様式が理論的に密接して変化していくのがめちゃくちゃ面白かった。唯一、渋いのはこの授業の成績配分がテスト100%の一発勝負式であったことだ。出席がないのはありがたいが、逆にいうと出席点で稼ぐということもできなくなる。そしてテストは膨大な範囲からたった2,3問の完全記述式という感じ。多くの人がどこから手をつけていいか分からないという感じだった。

物事の本質が見えている教授ほど、出席点なんかつけないもんだ。大概、テスト100%かレポート100%という形式をとる。そして勉強してない人、中途半端なレポートの人はきっちり落とす、そういう傾向がある。僕が大学教授だとしても同じ方式を採用するだろう。出席点になんの価値がある?あんなものゴミだ、大学なのに出席点とかつけてるセンスのない教授ほど授業は下手だし、テストを作るのも下手だ。小学校中学校高校じゃあるまいし、出席点なんて受身的なもの大学には必要ない。

そういう自分とセンスの一致する教授が作るテストというのは、どういう問題を出してくるのか自ずと見えてくる。本質を重視する傾向があるからだ。そして僕はいつも、テストで点を取るための勉強じゃなくて本質を勉強するように気をつけていた。(だから定期テストは弱いけど受験には強いんだと思う。受験は本質的な事を問う問題が多いから。)

ということで感性のあう西洋建築史の教授が出しそうな問題は大体わかる。僕は「西洋建築史」の予想問題を作った。どういうわけかそれが学科の同級生に出回ったらしい。そしてその予想問題がめちゃくちゃ的中した。俺からすると、この問題以外何出すんだよっていうものを8項目くらいあげてそん中から当たるのは当たり前なんだけど、西洋建築史ノー勉の人にとっては膨大な範囲の中から的中したように見えたんだろう。これが2年第1タームの話。

2ターム末試験が近づいてきた。当然、「また、予想問題作ってくれ」と頼まれる。そして「答えも作ってくれ」と頼まれる。でも正直、文章に書き起すのがめんどくさかった。しかもせっかく面白い西洋建築史を俺が作った答えの暗記だけで乗り越えて欲しくなかった。だから教えることにした。「自主ゼミ」の復活だ。建築学棟の2年の共同スペースでホワイトボードを使って西洋建築史の大事な所だけピックアップして授業をした。同じ授業を何回しただろう、新しい人が来るたびに「最初から授業をしてくれ」と頼まれるから計6、7回は授業をした。でも楽しかった。知識が自分だけのものじゃなくてみんなのものになっていくのがうれしかった。

結局、西洋建築史のテストではたしかバロックとゴシックを書き間違えるというとんでもないミスをして、第2タームの成績はなんとギリギリの「可」だったというオチつきだ。(あいかわらず定期テスト本番に弱いのは昔から変わらないし、教えた人が俺を超えてくるという展開も昔とちっとも変わっていない)

でも成績なんてどうでもよかった。さすがに単位がこなかったら萎えるけど、別にあんなものはただの管理用の記号だし、本質的には意味はない。西洋建築史の知識、知恵は自分の中でしっかりと昇華されているし、それを周りの同級生にも伝えることができた。それで十分だった。

大学生になっても未だに周りとテストで差をつけることにこだわっている人もいるけど、いいかげんそんなおこちゃまな考えははやく卒業してほしい。

テストのために知識を詰め込んでいい点数を取ることももちろん大事だけど、もっと大事なのはその知識をどう使うか、どう世の中に役立てていくかだ。隣の人より多く点数を取れるかどうかに価値はない。話が逸れた。

 

 

次の秋学期は「日本建築史」だ。あいにく西洋建築史とちがって日本建築史の授業はあまりわかりやすくなかったので、最初の2回くらいしか行かなかった。でも、「みたかが日本建築史とるなら私も取る」みたいな人がけっこういたのだ。もう後には引けないどうしてこうなった。とりあえずテスト前はみんなの期待を裏切る訳には行かないので勉強した。といっても2日前に本をかって読んだくらいだけど。(建築学科は課題が馬鹿みたいに忙しいがその分テストは軽いのだ。大体前日頑張ればなんとかなっちゃう。)

指定参考図書の「奈良の寺々」を横浜駅紀伊国屋書店で買ってきて、一晩で解読した。いくら速読が出来るとはいえ、専門用語だらけだし、あとは人に教えるにはきちんと理解しないといけないから結局徹夜して読んだ。他の科目の勉強もろくにしないで日本建築史の勉強ばっかしてた。

結局、日本建築史は結局15人?くらい(もっと少なかったかな)で建築学2Fで講義みたいな感じになった。俺の足りない知識は他の人が補ってくれたし、何より良かったのはみんな楽しくなってたところ。日本建築史おもしれぇ!って感じにみんななってたのがすごいよかった。絶対テストに出ない細かい事も気になりだしてみんなで調べたりとか、テストに関係なく純粋に日本建築史を楽しんでた、その雰囲気がよかった。これ程アカデミックな空間はないなと感じた。

 

これがやっぱり自分の原点。ただみんなに褒められたくてってんじゃ割に合わない行動力。「教える」ことがやっぱ心から好き。あとは教え方次第で物事が楽しくなったり面白くなったりするのもすごい価値のあること。

あとはなにより人から感謝されること。感謝されて嫌な気分になる人はいない。俺は褒められるのが苦手だ。なんて答えたらいいか分からないし、「すごい」と言われた時点で「すごくない人」が発生してその上下関係が出来るのもあまり気分が良くない。でも「ありがとう」に上下関係はないし言う方も言われた方もハッピーな気持ちになれる。

 

 

ということでやっぱり「教えることが好き」という結論に至ったわけですよ。

じゃぁそれを見つけてどうするか?自分は何をすべきか?

とりあえず今の塾のバイトで感じてるのは、勉強が嫌いな子が多いということ。でも人間にとって「知ること」ってのは本来楽しいことのはず。それは間違いない。実は彼らが嫌いなのは、学校の宿題とか学校・塾のテストとかであって実際に新しいことを知ることに興味が無い人はいないのだ。

僕は自分の可能な限り生徒に分かりやすく教えてきた。でも、そもそも彼らはなぜ勉強しなきゃいけないのか分からない。というか、僕らも分かってないんじゃないかな。少なくとも中学生時代に勉強する理由を本当の意味で理解してる人なんているのか?僕が中学生時代に勉強してた理由は「勉強しないと親が怒るから」これ以外の何ものでも無かった。まああとは普通に勉強が人並みに出来たからってのもあるけど、やっぱ本質的には人にやさられてたんだよね。まぁ自分の場合は昔から勉強は苦手じゃなかったからなんとかやってけたけど、勉強苦手な子はどうだろ。

とにかく99%の日本人は勉強を嫌々やっている。純粋に知の欲求として勉強してる人は極わずかだ。中学生の勉強くらいちゃんと出来ないと社会で通用しないぞ!ということで半強制的に忍耐ゲームのように勉強させられ、テストのために暗記し受験が終われば忘れる。これが日本の現状だ。

でも「社会で通用しないぞ!」という時代はもうとっくの昔に終わってる。これからは「好きなことして食ってける」時代だ。とは言ったものの完全に後者の世界に移行した訳では無い。まだまだ古い考えの世代が社会の上に立ってる以上は世の中はそう簡単には変わらない。でも変わりつつあるのは事実という、言わば時代の狭間にいる訳だ。

 

そんな中もう手っ取り早いのは、勉強を苦痛な行為から楽しいことに変えてしまうのが1番だ。要するに勉強する理由を「テストで点を取るため」「学歴を手に入れるため」「社会で通用する力をつけるため」とかそんなことじゃなくて単純に『楽しいから』と変えてしまう。

Q.なぜ勉強するの」「A.楽しいから」 これが1番シンプルかつ理想的な状態だ。

 

これは先の日本建築史の話と通ずるものがある。元々はテスト対策のための集まりだったのがいつの間にか知の欲求の追求に変わっている。あれこそが理想の姿だと僕は思う。

 

ということでとりあえず手っ取り早い話、勉強を楽しいものに変えてしまう。それがいい。

 

じゃぁどうなったら楽しくなるのか。それは「分かる」「できる」という状態だ。そりゃそうだ。「できないからつまらない」「分からないからつまらない」楽しいわけが無い。

 

ではなぜ学校の授業では楽しい授業は作れないのか。理由は簡単。未だに古い軍隊的で管理側の都合を押し付けた教育をしているからだ。

 

人それぞれ理解のスピードが違うはずなのに、全員おなじ進度で進む授業。

インプット重視で実際に使う機会がない詰め込むだけの教育。

とりあえずわけも分からず覚えさせられることばかり。

質の低い授業。向上心のない教師。

 

他にもいっぱいあるけどまあこんなとこだろう。

と、まぁこうやって学校批判することは簡単なんだけどじゃあお前はなんなんだ?そうやって他人に文句を言うだけで終わりなのか?

Twitterにも口だけご立派で何も行動しない人間が溢れているが、自分はそうはなりたくなかった。

せっかく自分の好きなことを見つけたんだからその好きな事で何かアクションを起こしたい。

 

そこで思いついたのがYouTube授業だった。(やっとでてきた)

YouTubeならさっきの問題がいろいろ解決できる。

まず自分のペースで勉強出来るということ。

あとは何回も再生できるということ。

そして時間無制限であるということ。

さっき授業の質が低いといったけど、もちろん教師の能力そのものの問題でもあるけど、少ない時間で膨大なカリキュラムをこなすのに無理があるという点もある。でもYouTubeなら別に自由自在。授業時間は青天井。これもいい所だ。

 

そして何より、面白くて分かりやすい授業を作れる自信があった。これは多分、俺が誰よりも質の高い授業を受け続けて来たからだと思う。中学生の時通ってた野田塾の先生たちは本当に分かりやすかったし、高校の先生はポンコツ揃いだったけど、浪人時代の駿台講師たちは全員分かりやすかった。

 

自分の経験上、もっとも効率の良い勉強方法は分かりやすい人から教えてもらうこと、これに限る。これが王道かつ確実に実力をつける方法だと思う。(だからこそ大学選びは慎重に良い教授、良い教育方式を採用してる大学を吟味した)

 

ということで、俺がやりたいのは「分かりやすくて面白い授業動画」だ。そしてかつ真の実力がつくような授業。ただ定期テストや受験で点を取るための勉強動画じゃなくて、単純に知の欲求を刺激するようなそんな授業動画を作りたい。まぁとは言ったものの学校のテストでみんな点を取りたいだろうからそこは知の欲求といい塩梅をとる必要があるけど、その辺のバランス感覚はキッチリしてる自信はある。

 

例えば、俺の動画いつも見てくれてる人は分かると思うけど、「なぜ?」とか「なんのために?」とか「何がしたいの?」みたいなテロップが多い。

単純にこれ覚えろ!みたいなのが絶対嫌だから問いを通じて本質的な理解を促してる。(俺はツッコミ心って呼んでる)

歴史の動画いつも見てくれてる人は分かるかな、俺の動画って一切年号が出てこないんだよね(平安時代②でちょこっとだけでてきた)

あと覚えろ!って言わないようにしてる(コレだけしか覚えなくていいよとは言うけど)とにかくまずは面白い!って思ってもらえる動画を作っていきたい。

 

 

長くなったけど、これがYouTube解説動画を始めた理由の“1つ”。(まだあるよ)

こんなくそ長い文章最後まで読んでくれたのは俺の相当なファンだねありがとう。これからも応援よろしく!