なぜYoutubeをはじめたのか - その2

その1ですら長かったのにまだあります。

 

 これはコロナは流行る前から思っていたことだけど、今の時代教師が黒板で授業をする必要ってある?。

昔は通信技術が発達していなかったから各地に人を配置して授業をする必要があったけど、通信技術が発達した現代においてその必要性が薄れている。はっきりいってその辺の雑魚い教師が授業を毎年毎年やるよりめちゃわかりやすい教師の授業を一回撮ってそれを配信した方がよっぽどいい。

 インプットだけなら映像授業の方が間違いなく効率的。実際、東進にも採用されているシステムだし、そのへんの質の悪い学校の教師の授業よりも確実によい。映像授業ならば生徒のレベルに応じて、進度やレベルも選べるというメリットもある。(さらっと言っているがこのメリットはかなり大きい。実際問題、足並みをそろえた授業は、できる子にとっては物足りなく、できない子はどんどん置いていかれるという途轍もないデメッリトが存在している。)

 ここで勘違いして欲しくないのは学校で授業することそのものの否定ではないということ。あくまで知識のインプットは映像授業で行って、学校の授業では英語なら英語で実際に話し合ったりする時間とか、数学なら作図や実際に展開図を組み立てて立体を作ってみるなどの手を動かす時間、理科なら実験、社会ならディスカッションなど、知識を実際「使う」機会を増やせばいいんじゃないかなと。要するに「アウトプット」の時間を学校ではもっと増やそうという話。

 いまは学校の授業は知識を詰め込んでテスト、受験乗り切って受験終わったらその知識は忘れる、みたいな状態。もちろん知識を詰め込むことはとても大事。知識がなければ考えることすらできない。だから知識量自体を減らすだけだったゆとり教育は失敗した。方法はただ一つ、詰め込む知識量を減らさずインプットの質を向上させる。そのために質の良い映像授業で効率よくインプットをおこない、浮いた時間をさっき言ったアウトプットの時間を増やす。

    やはり、実際に自分の手でモノを作ったりあるいは考えたりすることが一番の定着となる。てかなにより「楽しい」。この「楽しい」ってのはその1でも言ったけど自分の目標というかテーマで、勉強=苦痛みたいなのがなくなって欲しい。

これは建築学科の人間だからよくわかる。建築学科というのは究極のアウトプットの学科だからだ。得た知識をいかにして形に表現していくかを常に考えなくてはならない。

 

 

    今バイトしてる塾では、ちょっとこの自分の思想を実践している。例えば、6年生の小学生は「線対称」と「点対称」の単元を扱う。普通はテキストを使って進めるんだけど、そのテキストは「線対称は点と点を結ぶ線と対象線と________で交わる。」(答え. 垂直) みたいな問題をとく感じ。コレじゃ全然面白くない。だから、俺はテキストは閉じさせて白紙にテキトーな図を描き、「線対称を完成させてみて!」と出してみる。

     すると、今までダラダラとやっていた小学生が目を輝かせて「え~!どうやってやるんだろう~」と頭を悩ませ出す。(ホントにかわいい。) ヒントとして、紙を対象線に沿っておってあげて透かしてあげる。そうすると、対象となる点と点が対象線と90度で交わることが直感的に理解出来る。おそらくテキストをダラダラとやらせるよりよっぽど線対称が身についただろう。

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     他にも立体の展開図がわからない子に、職業柄()持ち歩いているカッターを使ってその場で切り出してみたりとか、とにかくいろいろやってる。

 

まぁ試す前から分かりきっていたけど、絶対に手を動かす方が楽しいし、楽しいから定着する。

今まではインプットの方法が生ライブ授業しかなかったが、今やその必然性もなくなった。インプットは動画や映像授業に任せ、アウトプットの機会を増やし教師はそれをサポートする存在となるのがベストなんじゃないかなと思っている。

 

 

もちろん理論ばかり語ってては世の中何も変わらない。ということでYouTube解説動画を自分が始めちゃおうという話。とりあえず自分が誰よりも分かりやすい映像授業、それも旧来の黒板を使ったものではなく動画の特性を活かしたものを作ることで「ほら、ライブ授業よりこっちの方がいいでしょ?」と証明したい。まぁもしかしたら「やっぱ映像授業ダメじゃねぇか」となる可能性もあるけど。。。

 

さっきもさらっと言ったけど、この方式は東進がすでに実践している。だがあろうことか東進はその一度収録した授業を1講座7,8万円で販売している。とんでもないぼったくりだ。確かに最初は画期的なシステムで一気に全国展開して大成功ではあったが、そろそろ時代が変わってきている。ただよびというYouTubeチャンネルをご存知だろうか。東進講師が東進をやめてYouTube動画を配信し始めたのだ。YouTubeの素晴らしいところは生徒と講師の間に直接お金のやりとりがないこと。広告収入で講師側にお金が入るわけだ。この新しい仕組みで授業料という概念が崩壊しつつある。もし、今後ただで質の高い授業がもっと観れるようになったら予備校はおろか東進すら潰れるんじゃないかなと予想している。(そして生き残るのが個別指導塾。)僕もただよびと全く同じことをしている。(僕の方が始めるの1週間早かったけどね!)

ということで、今後はますますYoutubeで勉強するのが当たり前の時代、映像で勉強するのが当たり前の時代が来ると踏んでいる。

 

でも映像授業ならなんでもいいかっていうと自分はそうは思わない。今の映像授業は黒板やホワイトボードを使った授業動画ばかりだ。要するに普段やっている授業を動画に撮っているだけなのだ。これでは動画のメリットを半分も活かせない。

もっとせっかく動画なんだから動画の特性を活かすべきだし、というかなにより黒板を映した授業って見る気失せるんだよね!

 

 

脳死的に黒板で授業し続けること今の体制を考え直す必要は間違いなくあると感じてる。有名な理系Youtuberヨビノリはあえて黒板を使っている。実際数学などは黒板を使うメリットがあると思う。論理の流れは黒板でも十分に伝わるからだ。ヨビノリたくみは板書の時間を編集でカットして効率化している。この辺もさすがという感じだ。

だが、こと自分がメインでやっている社会に関しては黒板を使うメリットが一つもない。

黒板に「寝殿造」と書くよりもさっさと源氏物語絵巻を見せた方が早い。

元禄文化は華やかな文化が栄えた」なんて黒板で書くよりさっさと尾形光琳の燕子花図をバンッと見せてしまえばいいのだ。

生徒たちは口を揃えて「歴史は覚えられないから苦手」と言う。そりゃそうだ。教え方にリアルさがないから頭に残らない。説明の省略された問題集ばかりやっていて「華やかな文化が栄えた」なんて具体性がわかない字面を覚えることになるからだ。

歴史に限らす地理もそうだ。地理は地図と照らし合わせながら勉強するのが一番いい。あとは実際にみることも効果的。俺の動画では積極的にGoogleEarthを使ってる。黒板で書く三角州の図より実際に広島の三角州の衛星写真を見せた方が実感が湧く。というように知識をよりリアルに見せることで確実に印象付けることができる。

いままではインターネットとかGoogleEarthもなかったから地図帳、資料集で頑張るしかなかったけど、いまはいくらでもやり方がある。

 

理想を言えば、プログラミングとかも勉強してクイズ形式とかそういうソフトもつくれればいいんだけどね。

 

ということでなぜYoutube始めたのか、その理由の二つ目の話です。ようするに時代遅れな生ライブ授業、もっと言えば時代遅れ映像授業に一石投じてみたかった、という話です。最後まで読んでくれてありがとう!

 

なんでYoutubeを始めたのかーその1

なんでYoutubeを始めたのかーその1

 

 

 

話すと長くなる。ていうか理由が多すぎる。とりあえず今日はとりあえず一つ目の理由から。

まず単純に自分が教えることが好きだということにハッキリ気がついたから。といってしまえば簡単なことのように思えるけどここにたどり着くまで紆余曲折あったからその経緯を話そうと思う。

きっかけは3月に、ある建築家の設計事務所インターンに行ったことだ。大学2年から3年へのこの時期、誰もが自分の進路に迷う時期だろう。なんとなく建築学科に入ったはいいもののその先が全く見えてない人も多い。何を隠そう自分もその一人だった。そんな中、うちの大学の門とその周辺を設計するというコンペの結果が発表された。このコンペはうちの大学関係者のみ(教授や卒業生、在校生など)が応募できる形式で自分の知っている場所が自分の知っている人たちによって設計されるというコンペだった。僕は、そこではじめてプロの建築家がつくったプレゼンテーション案というのを見た。考えてみれば、今まで見てきたのは学生のプレゼンテーション案ばかりでプロの建築家の案など見たこともなかったのだ。もちろん有名建築はみてきたけど、コンペ案をみたのは実は初めてだった。しかも、自分のいつも使っている場所というのも、いままでなかった。

そんな中、選ばれた作品すべてに目を通したけどどれも心躍るような提案ばかりで、「こんなのができたら面白いだろうな!」と初めて心から思えた。正直、いままで意匠設計には懐疑的であったけど、普段使っている無味乾燥なあの門がこんな風に変えられるのか!と本当の意味で初めて建築設計に心を動かされた。

そんなかんやで、初めて建築設計事務所に興味が湧いてきた。ちょうどうちの大学で講師をやっていた建築家がインターンを募集していたので、迷わず申し込んでみた。

さっそくコロナが徐々に日本を侵食し始めた3月はじめから2週間のインターンに行くことになった。まあそこでいろいろあったんだけど、ほんとにいろいろあって、その建築家と衝突したりとかまあいろいろあったんだけど(この話はいつか別の機会で)まあそれは置いといて、その衝突とか色んな葛藤から自分にとっての幸せってなんだろうなって問いが生まれたわけ。(急に重い)この先どうやって生きていこうって。何を基準に生きていこうって。自分はほんとに建築が好きなのかな、建築の世界で生きていけるのかな、そもそもそれを望んでいるのかなって。とりあえず、その答えを求めていろんな本を読みまくった。自己啓発本からアドラー心理学までなんでも読んだ。

この話もいつかしていきたいと思うんだけど、結論としては「自分の好きなことをする」と「人に感謝されることをする」この二つに帰着したの。

 

「自分の好きなことをする」とは言ったものの世の中の大半の人はそんなもの見つけられない。なぜかというと「承認欲求」が邪魔してくるからだ。

岡本太郎の「今日の芸術」という本にこんな話があった。岡本太郎は「誰もが芸術家なのだ」と文中で明言している。どういうことかというと、例えば幼稚園児に紙と描くものを与えると園児たちは自由気ままに絵を描く。こういう絵を岡本太郎は「本当の芸術」と言ったのだ。人間の本能的な衝動をなにかであらわす。この行為こそが芸術なのだ、と。(これは俺の解釈)たしかに、急に歌いたくなったり変な踊りがしたくなったりすることが誰にでもあるだろう。それは人間の本能であり、それを表すことが芸術なのだ。うちの母さんは、風呂に入る前に父さんの前で風呂に行く舞を踊るそうだ。これは母が頭おかしいとかそういうのじゃなくてたぶん人間ってそういうものなんだと思う。(父は早く風呂入ってくれとおもっているらしい)

だがしかし、だれもが持っていたはずの絵を通じて自分の感情、思いを表現するという衝動は、ほとんどの人はいつのまにか消滅している。なぜなら歳をとればとるほど絵を描いた後にこう言われるからだ。「君は絵が下手だね」「君はあの子より絵が上手くないね」と。絵を描く本能的な喜びよりも周りからの評価に振り回されるようになるのだ。

これはなにも絵だけに当てはまることじゃない。世の中何でもそうだ。人の目が気になるからやめてしまう、そもそもやらないってことばかり。「やるからには上手くなければならなし」「あんなにやってるのに全然上達しないね」「君、〇〇年もそれやってるのにまだ〇〇しかできないの?」「下手だね」「なにしてるの?」「頭おかしいんじゃないの?」「才能ないよ」こういう声を気にしている限り「自分の本当に好きなこと」なんて見つけられるわけがない。「好きなこと」ってのは周りから承認されることとかそういうことを超えた、自分の中から湧き出るエネルギーだったりよろこびだったりすると思う。

 

 

ということでまず「自分の好きなこと」を見つけるためには人の目を気にするのをやめる、つまり承認欲求を捨てることをしなきゃいけない。(承認欲求が人間の不幸の根源である話もいつかしたいな)まず、建築学科に入ったから建築に関係してなきゃいけない、これも一種の他人が決めたレッテル貼りだ、そういうのも一切捨てて考えなきゃいけない。もっとこう自分の魂が突き動かされるような何かを見つけなければならない。

そこで結局たどり着いた答えが「教える」ことだったんだよね。アルバイトが塾講師なんだけど、まあそれも差し引いて振り返れば昔から「教える」ことが好きだった。

うちの高校出身の人はわかると思うけど、うちの高校には「自主ゼミ」なるものがあって定期テスト前に生徒が生徒に教えるゼミみたいなのがあった。高2の時だったかな、そんときからやってたんだよね自主ゼミ先生を。当時は人生で一番勉強してなかったからコミュ英とか倫理で赤点を続出してた。でも受験サプリをやっていたから英文法と古典文法(当時の受験サプリは正直その二つしかわかりやすくなかった)はめちゃめちゃ理解できてた。(テストはなぜかできない。)だから誰が名付けたか忘れたけど「赤点先生」って名前で自主ゼミをやっていた。自分の勉強もまともにできてないのに人に教えてばっかりで、自分が教えた人が俺よりいい点数を取ってきたりもした。(受験では本番に強いけどどーも定期テストは本番に弱いんだよね)

 

大学に入った。最初のきっかけは「西洋建築史」。この授業は教授の授業がわかりやすくてめちゃめちゃ面白かった。なにより建築史という時代背景とともに建物の様式が理論的に密接して変化していくのがめちゃくちゃ面白かった。唯一、渋いのはこの授業の成績配分がテスト100%の一発勝負式であったことだ。出席がないのはありがたいが、逆にいうと出席点で稼ぐということもできなくなる。そしてテストは膨大な範囲からたった2,3問の完全記述式という感じ。多くの人がどこから手をつけていいか分からないという感じだった。

物事の本質が見えている教授ほど、出席点なんかつけないもんだ。大概、テスト100%かレポート100%という形式をとる。そして勉強してない人、中途半端なレポートの人はきっちり落とす、そういう傾向がある。僕が大学教授だとしても同じ方式を採用するだろう。出席点になんの価値がある?あんなものゴミだ、大学なのに出席点とかつけてるセンスのない教授ほど授業は下手だし、テストを作るのも下手だ。小学校中学校高校じゃあるまいし、出席点なんて受身的なもの大学には必要ない。

そういう自分とセンスの一致する教授が作るテストというのは、どういう問題を出してくるのか自ずと見えてくる。本質を重視する傾向があるからだ。そして僕はいつも、テストで点を取るための勉強じゃなくて本質を勉強するように気をつけていた。(だから定期テストは弱いけど受験には強いんだと思う。受験は本質的な事を問う問題が多いから。)

ということで感性のあう西洋建築史の教授が出しそうな問題は大体わかる。僕は「西洋建築史」の予想問題を作った。どういうわけかそれが学科の同級生に出回ったらしい。そしてその予想問題がめちゃくちゃ的中した。俺からすると、この問題以外何出すんだよっていうものを8項目くらいあげてそん中から当たるのは当たり前なんだけど、西洋建築史ノー勉の人にとっては膨大な範囲の中から的中したように見えたんだろう。これが2年第1タームの話。

2ターム末試験が近づいてきた。当然、「また、予想問題作ってくれ」と頼まれる。そして「答えも作ってくれ」と頼まれる。でも正直、文章に書き起すのがめんどくさかった。しかもせっかく面白い西洋建築史を俺が作った答えの暗記だけで乗り越えて欲しくなかった。だから教えることにした。「自主ゼミ」の復活だ。建築学棟の2年の共同スペースでホワイトボードを使って西洋建築史の大事な所だけピックアップして授業をした。同じ授業を何回しただろう、新しい人が来るたびに「最初から授業をしてくれ」と頼まれるから計6、7回は授業をした。でも楽しかった。知識が自分だけのものじゃなくてみんなのものになっていくのがうれしかった。

結局、西洋建築史のテストではたしかバロックとゴシックを書き間違えるというとんでもないミスをして、第2タームの成績はなんとギリギリの「可」だったというオチつきだ。(あいかわらず定期テスト本番に弱いのは昔から変わらないし、教えた人が俺を超えてくるという展開も昔とちっとも変わっていない)

でも成績なんてどうでもよかった。さすがに単位がこなかったら萎えるけど、別にあんなものはただの管理用の記号だし、本質的には意味はない。西洋建築史の知識、知恵は自分の中でしっかりと昇華されているし、それを周りの同級生にも伝えることができた。それで十分だった。

大学生になっても未だに周りとテストで差をつけることにこだわっている人もいるけど、いいかげんそんなおこちゃまな考えははやく卒業してほしい。

テストのために知識を詰め込んでいい点数を取ることももちろん大事だけど、もっと大事なのはその知識をどう使うか、どう世の中に役立てていくかだ。隣の人より多く点数を取れるかどうかに価値はない。話が逸れた。

 

 

次の秋学期は「日本建築史」だ。あいにく西洋建築史とちがって日本建築史の授業はあまりわかりやすくなかったので、最初の2回くらいしか行かなかった。でも、「みたかが日本建築史とるなら私も取る」みたいな人がけっこういたのだ。もう後には引けないどうしてこうなった。とりあえずテスト前はみんなの期待を裏切る訳には行かないので勉強した。といっても2日前に本をかって読んだくらいだけど。(建築学科は課題が馬鹿みたいに忙しいがその分テストは軽いのだ。大体前日頑張ればなんとかなっちゃう。)

指定参考図書の「奈良の寺々」を横浜駅紀伊国屋書店で買ってきて、一晩で解読した。いくら速読が出来るとはいえ、専門用語だらけだし、あとは人に教えるにはきちんと理解しないといけないから結局徹夜して読んだ。他の科目の勉強もろくにしないで日本建築史の勉強ばっかしてた。

結局、日本建築史は結局15人?くらい(もっと少なかったかな)で建築学2Fで講義みたいな感じになった。俺の足りない知識は他の人が補ってくれたし、何より良かったのはみんな楽しくなってたところ。日本建築史おもしれぇ!って感じにみんななってたのがすごいよかった。絶対テストに出ない細かい事も気になりだしてみんなで調べたりとか、テストに関係なく純粋に日本建築史を楽しんでた、その雰囲気がよかった。これ程アカデミックな空間はないなと感じた。

 

これがやっぱり自分の原点。ただみんなに褒められたくてってんじゃ割に合わない行動力。「教える」ことがやっぱ心から好き。あとは教え方次第で物事が楽しくなったり面白くなったりするのもすごい価値のあること。

あとはなにより人から感謝されること。感謝されて嫌な気分になる人はいない。俺は褒められるのが苦手だ。なんて答えたらいいか分からないし、「すごい」と言われた時点で「すごくない人」が発生してその上下関係が出来るのもあまり気分が良くない。でも「ありがとう」に上下関係はないし言う方も言われた方もハッピーな気持ちになれる。

 

 

ということでやっぱり「教えることが好き」という結論に至ったわけですよ。

じゃぁそれを見つけてどうするか?自分は何をすべきか?

とりあえず今の塾のバイトで感じてるのは、勉強が嫌いな子が多いということ。でも人間にとって「知ること」ってのは本来楽しいことのはず。それは間違いない。実は彼らが嫌いなのは、学校の宿題とか学校・塾のテストとかであって実際に新しいことを知ることに興味が無い人はいないのだ。

僕は自分の可能な限り生徒に分かりやすく教えてきた。でも、そもそも彼らはなぜ勉強しなきゃいけないのか分からない。というか、僕らも分かってないんじゃないかな。少なくとも中学生時代に勉強する理由を本当の意味で理解してる人なんているのか?僕が中学生時代に勉強してた理由は「勉強しないと親が怒るから」これ以外の何ものでも無かった。まああとは普通に勉強が人並みに出来たからってのもあるけど、やっぱ本質的には人にやさられてたんだよね。まぁ自分の場合は昔から勉強は苦手じゃなかったからなんとかやってけたけど、勉強苦手な子はどうだろ。

とにかく99%の日本人は勉強を嫌々やっている。純粋に知の欲求として勉強してる人は極わずかだ。中学生の勉強くらいちゃんと出来ないと社会で通用しないぞ!ということで半強制的に忍耐ゲームのように勉強させられ、テストのために暗記し受験が終われば忘れる。これが日本の現状だ。

でも「社会で通用しないぞ!」という時代はもうとっくの昔に終わってる。これからは「好きなことして食ってける」時代だ。とは言ったものの完全に後者の世界に移行した訳では無い。まだまだ古い考えの世代が社会の上に立ってる以上は世の中はそう簡単には変わらない。でも変わりつつあるのは事実という、言わば時代の狭間にいる訳だ。

 

そんな中もう手っ取り早いのは、勉強を苦痛な行為から楽しいことに変えてしまうのが1番だ。要するに勉強する理由を「テストで点を取るため」「学歴を手に入れるため」「社会で通用する力をつけるため」とかそんなことじゃなくて単純に『楽しいから』と変えてしまう。

Q.なぜ勉強するの」「A.楽しいから」 これが1番シンプルかつ理想的な状態だ。

 

これは先の日本建築史の話と通ずるものがある。元々はテスト対策のための集まりだったのがいつの間にか知の欲求の追求に変わっている。あれこそが理想の姿だと僕は思う。

 

ということでとりあえず手っ取り早い話、勉強を楽しいものに変えてしまう。それがいい。

 

じゃぁどうなったら楽しくなるのか。それは「分かる」「できる」という状態だ。そりゃそうだ。「できないからつまらない」「分からないからつまらない」楽しいわけが無い。

 

ではなぜ学校の授業では楽しい授業は作れないのか。理由は簡単。未だに古い軍隊的で管理側の都合を押し付けた教育をしているからだ。

 

人それぞれ理解のスピードが違うはずなのに、全員おなじ進度で進む授業。

インプット重視で実際に使う機会がない詰め込むだけの教育。

とりあえずわけも分からず覚えさせられることばかり。

質の低い授業。向上心のない教師。

 

他にもいっぱいあるけどまあこんなとこだろう。

と、まぁこうやって学校批判することは簡単なんだけどじゃあお前はなんなんだ?そうやって他人に文句を言うだけで終わりなのか?

Twitterにも口だけご立派で何も行動しない人間が溢れているが、自分はそうはなりたくなかった。

せっかく自分の好きなことを見つけたんだからその好きな事で何かアクションを起こしたい。

 

そこで思いついたのがYouTube授業だった。(やっとでてきた)

YouTubeならさっきの問題がいろいろ解決できる。

まず自分のペースで勉強出来るということ。

あとは何回も再生できるということ。

そして時間無制限であるということ。

さっき授業の質が低いといったけど、もちろん教師の能力そのものの問題でもあるけど、少ない時間で膨大なカリキュラムをこなすのに無理があるという点もある。でもYouTubeなら別に自由自在。授業時間は青天井。これもいい所だ。

 

そして何より、面白くて分かりやすい授業を作れる自信があった。これは多分、俺が誰よりも質の高い授業を受け続けて来たからだと思う。中学生の時通ってた野田塾の先生たちは本当に分かりやすかったし、高校の先生はポンコツ揃いだったけど、浪人時代の駿台講師たちは全員分かりやすかった。

 

自分の経験上、もっとも効率の良い勉強方法は分かりやすい人から教えてもらうこと、これに限る。これが王道かつ確実に実力をつける方法だと思う。(だからこそ大学選びは慎重に良い教授、良い教育方式を採用してる大学を吟味した)

 

ということで、俺がやりたいのは「分かりやすくて面白い授業動画」だ。そしてかつ真の実力がつくような授業。ただ定期テストや受験で点を取るための勉強動画じゃなくて、単純に知の欲求を刺激するようなそんな授業動画を作りたい。まぁとは言ったものの学校のテストでみんな点を取りたいだろうからそこは知の欲求といい塩梅をとる必要があるけど、その辺のバランス感覚はキッチリしてる自信はある。

 

例えば、俺の動画いつも見てくれてる人は分かると思うけど、「なぜ?」とか「なんのために?」とか「何がしたいの?」みたいなテロップが多い。

単純にこれ覚えろ!みたいなのが絶対嫌だから問いを通じて本質的な理解を促してる。(俺はツッコミ心って呼んでる)

歴史の動画いつも見てくれてる人は分かるかな、俺の動画って一切年号が出てこないんだよね(平安時代②でちょこっとだけでてきた)

あと覚えろ!って言わないようにしてる(コレだけしか覚えなくていいよとは言うけど)とにかくまずは面白い!って思ってもらえる動画を作っていきたい。

 

 

長くなったけど、これがYouTube解説動画を始めた理由の“1つ”。(まだあるよ)

こんなくそ長い文章最後まで読んでくれたのは俺の相当なファンだねありがとう。これからも応援よろしく!

グローバク化に翻弄される賛成派&反対派(9月入学)

9月入学に関して、まあ後は意見は人それぞれだから反対すること自体を否定するつもりは全くないんだけど

 

一つ気になることがあって、反対派の意見に「グローバル信仰(笑)」とか「グローバル化より自分の国のスタイルを保つべき」という意見がよくみられる。

一見正当そうな主張に見えるけど、9月入学がもたらす具体的な恩恵、逆に言えば4月入学の現状での具体的な弊害が見えた上での発言とは思えないものが多い。

たぶん「グローバル化」ていうあやふやな言葉に惑わされて実態が見えていない人が多いんじゃ無いかな。(これは賛成派・反対派限らず)

 

まずは現行のシステムに具体的にどののような弊害があるのかみてみる。

4月入学の日本から9月入学の国へ留学する場合、まず入学時に半年入学が遅れる。そのまま現地で職につけば半年の遅れで済むが、仮に日本に帰国して就職する場合、また半年遅れることになる。結局、トータルで一年遅れる、すなわち留学すれば留年や浪人と同じ状況になってしまうわけです。

留年や浪人は(一般的に)自身の実力不足から生じるもので自業自得的な面があるが、留学は「そういう選択肢をした」というだけで一年遅れてしまうのだ。

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アメリカの大学に進学した高校時代の後輩

そしてそれは9月入学の国から4月入学の日本に留学してくる外国人留学生も全く同じ状況だ。

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こちらは同じ大学の留学生からの反応


そんな状況でも日本にへやってくる留学生がいるのも事実。日本の教育に魅力を感じている人が一定数いる証拠である。そんななか制度の壁によって「日本」という選択がされにくくなるという状況が由々しいという状況はできることなら打破されるべきである。


また、学生だけでなく交換教授でも同じことが言えるようだ。これは尾木ママのブログに書いてあったことだけど、「これでは留学に不便なだけじゃなく、交換教授もなかなか進まず、国際学会での評価は低いのです。常にトップリーダーであった東京大学でも、今やアジアで5位のポジションに甘んじているのです」(だから東大は昔本気で9月入学検討したのかな?)教授って面もあるんだね知らなかった。

 

 

そして留学がしやすくなった、その先になにがあるのか。これが大事。(でも見えて無い人多いんじゃないかな)

これはただ単に「留学しやすくなった」だけの問題では無い。「俺、留学とかしないから関係ない」という話ではないということだ。

日本国内に居続ける人にも大きな影響があるのだ。

先ほども言ったように、システム的に留学しやすいしくみが出来上がれば国内の留学生の割合は幾ばくかは上昇するだろう。私の所属している学科は約70人中3人が留学生だ。たった3人であるが、価値観や考え方、教育システムの違いなどに驚かされる。また、僕のかつて通っていた高校には「国際教養科」というものがあり(僕は「普通科」だったけど)国際性豊かな高校であった。交換留学も多いし、帰国子女も多い。普通科のクラスにも長期滞在の留学生が1人は配置されるし、短期留学生もクラスの一員となる。そのような環境下で国境を超えた交流がなされるわけである。いままで日本という島国から出たことのない人たちにとっては様々な新しい価値観、考え方に触れる機会となる。

またそのような環境下であれば、次第に「留学」という選択肢が選びやすくなってくる。先ほども言ったように僕の高校には国際教養科があって国際教養科の中にはフィンランドやドイツ、アメリカへ1年留学する人もいる。(僕の仲のいい国際教養科の同級生はみんな留学して一個下の学年になってしまった…)そんな環境なので毎年、普通科でも1年留学する人もいる。「留学」という環境が整っているので当然の流れだ。このように選択肢が自然と広まっていくのも利点の一つだ。 

 

グローバル化のメリットは英語が話せるようになるとか、留学しやすくなる、といった面だけではない。そもそも「グローバル化」とはさまざまな情報や物が国境という概念を超えて移動したり活発になったりすることを言う。日本にいながらも様々な国の人間と関わる機会が増えるのは、それだけでもうグローバル化なのである。

その辺は勘違いしないで欲しい。

だから9月入学のメリットの否定として、「本当に留学したい人には9月だろうが4月だろうが関係ない」とか「一部の留学する人だけの問題」という主張は根本的に誤っている。

あるコメンテーターがテレビで「グローバル化ってなに?日本人であることの軸もはっきりしないうちにグローバル化?」みたいことを言っていたがそうじゃない。日本人という軸をはっきりさせるためにも(他軸と比べてみて初めて自覚できる軸もあるだろう、というか比べてみて初めてわかることの方が多い気がする)グローバル化というメリットは大きく寄与するのだ。

 

 

もちろんだからといって9月入学をゴリ押せと言っているわけじゃない。様々なデメリットがあるのは十分承知しているし、それらは検討されるべきだ。ていうか上に言ったメリットならなにも完全9月入学に移行しなくても、日本でも

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アメリカの大学に進学した高校時代の後輩より

 


4月入学と9月入学を選べるようにすればいい話(アメリカみたいに)。

ただ「グローバル化」という言葉に翻弄されて現実の問題やメリットとかけ離れた議論をみるのは見るに耐えない。もちろんこの状況を承知で議論を展開している人もいるだろう。承知した上で反対する人もいるだろう。それを否定する気は全くない。正直、この段階にきてはあとは国の判断を待つばかりと言う感じで如何しようも無いと感じている。

この記事でいいたいのは「だから絶対9月入学にした方がいい!」って話じゃなくて、メリットとしてこう言う話があるよってだけ。みんな「グローバル化」っていう抽象的な言葉を抽象的にとらえて実態が見えてないんじゃない?って思っただけです。

 

みんな言葉には気をつけてね。9月入学反対案に「日本の伝統」としての桜を廃止するのは如何なものか、と言う意見もあるけど「日本の伝統」ってなんだろうね?岡本太郎の「日本の伝統」という本を読んでから僕はずっと考えてるけど、答えがでそうにないよ

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こちらはアメリカの大学に進学した高校のまた別の後輩(いろんな意見がありますね)

 

最近主張が激しくなってきたのでブログはじめます。

 

・こんにちは、とある国立大学でとある建築学生をしているミタカというものです。

 

最近9月入学やらなんやらと主張が激しくなってきて、その主張がツイッターとかじゃ収まりきらなくなったので困っていました。そういう時は、メモ画面スクショして投稿するって方法もあるけどなんか違うやん???

 

どうしよかなって思ってたら、「あ、こういう時にブログって書けばいいのか」って思ってマレーシア行った高校の同級生がブログをやっていたのを思い出して同じはてなブログで投稿することに決めました。

 

実は去年、山形でリゾートバイトしてた時にブログ書いてみようと思ってやってみたんだけど思いの外リゾバが忙しくて1日でやめたっていう。いまはコロナで休講だから暇だけど、また学校忙しくなったらやめちゃうかも。。。

 

あとはね、ちょっと前にマコなり社長がYoutubeアシスタントの募集をしていて、申し込みたかったけど寿司打1万円以上が条件にあったから寿司打練習したんだよね。結局、応募期間以内に1万円超えることはできなくて応募しなかったけど、練習したおかげで前よりタイピングが速くなったから長文書くハードルが下がったってのもある。(寿司打のスコアはダメだったけどダメ元で申し込めばよかったと後悔してる。)

 

自分の思考を言語化することが大事だし、それによって自分の思考もアップデートされるし、そのついでにその発信した思考がだれかに影響を及ぼせば一石二鳥だしね。誰のためでもない自分のために書きます。

あとはまあYoutubeの宣伝にもなればなと。名義が本名とYoutube名義が混じっててややこしくなってるけど。まあ適当に書いてきます。では!